ひとなるブログ

心に留めておく言葉、フォーカスすべき事柄、マジョリティ側の意見を日記として記述してますあ

川崎殺傷事件にみる感情

やられた側の小学校への記者会見、必要か?どう考えても通り魔が起こした事件、被害者側を報道してどうする。

 

あと、保育園、幼稚園から小学校まではスクールバスがあるとは思う。一般的には歩きや自転車だろう。そこで起こる通り魔、防げるはずがない。議論の余地もない。何をもって「防いだ」と言えるのか。それは学校の敷地内に入ったらか?敷地内に入って犯行に及んだ池田小学校の事件あったよな。無理なんだよ、定義からして。

 

では敷地内に入るまで通り魔から身を守ろうとしよう。それは保護者が学校まで送り迎えすることを意味する。現代でできるか?親の反対が起きるわ。しかも心の中でしか言えない。

 

通り魔に遭遇する確率がどれくらいなのか。無職の人の数、その中で金が底をついてる数、その中で精神疾患を持ってる数、その中で刃物を持って出歩く数、本当に刺してしまう数。数字にしたらオーナイン(0.000000001%)とかなんじゃね。この確率で0にしようなんて無理。諦めたら終わり、それもわかる。

 

目の前で起こる死から目をそらす日本社会も問題だし、通り魔を野放しにしておくこともダメ、警察官を動員するのも限界があるし何より警察官の仕事じゃないし、地域ボランティアも限界があるし、そもそも大人が周りにいて対処できない状況でどうしろと。政権批判は論外。

 

じゃ私ならどうするか。

 

そうだな。まず定義付けとして校内(校門)まで送り届けることを安全と位置付けるなら親と一緒に車で登校。車がないなら自転車や徒歩で同伴。それも無理なら諦めて子供だけで登校。諦めるというのはあくまで親の判断。親が悪いというのではなくこれらをできない会社の問題。

 

会社の問題は子供を学校まで送り届けてから会社に向かうことも許されない会社、フレックス制度もないような会社、時間厳守の就業時間であることが問題でありこっちから解決する必要がある。そもそもIT社会が整っており就業開始の時間が固定されている現代、社会がおかしい。共働きであるなら送りとお迎えを別々でやればいいだけ。

 

昔と比べて外には危険なものがまだまだたくさんある。交通事故の件数は少なくなってはいるが人が操作している限りミスはつきもの。死亡事故はゼロにはならない。限りなくゼロにしようとする試みはやるべきだがゼロを目標にするなら家でネット学校するしかない。それが嫌なら一定のリスクを背負わなければならない。

 

何をもって子供にとって安全なのかのレベルは個々で違う。個々で違うのに学校というひとくくりの中だと全体主義に偏りがち。それは効率化を優先しているから。偏ると一定のルールが形成され法則が生まれる。そこを突かれて事件、事故が起こる。これを防げ?無理だよ。

 

で、自分がこの被害者のようになったらどうするんだ、という究極の質問をする輩がいるがこれは「リーガルハイ」というドラマでいい表現がある。難病の患者に投与した新薬で亡くなった患者の裁判。

 

「その死の一つ一つが医療を進歩させてきた。現代の医療は、その死屍累累の屍の上に成り立っている。誰しも医学の進歩のためには犠牲があっても仕方がないと思っているはずだ、その恩恵を受けたいからね。しかし、その犠牲が自分や家族であると分かった途端にこう言うんだ、「話が違う!」と。なんで自分がこんな目に遭わなければいけないんだ!誰のせいだ!誰が悪いんだ!誰をつるし上げればいいんだ!」

 

新薬としては容体が改善した確率は他の薬に比べて低いものではなかった。むしろどの薬よりも効果のある薬であることが証明された裁判だった。その中でのセリフ。

 

その後にこんなセリフも

「訴えたいなら科学を訴えろ。あなたのご主人を救えなかったのは現代の科学だ」

 

現代にできないことを諦めるわけではないが、この後にあるセリフ

「我々にできることはせめて今ある命を慈しむことです。一日一日が奇跡なのだと知ることです。」

のように突然起こる不幸な出来事に悲しむ前に日々生きていることの幸せを感じることに一生懸命になった方が良いかと思う。

 

誰が悪い、何が悪いのかの犯人探しより今の自分、家族を大事にしよう。