ひとなるブログ

心に留めておく言葉、フォーカスすべき事柄、マジョリティ側の意見を日記として記述してますあ

覚悟と決断

元農水事務次官“御曹子殺人” 「運動会の音がうるさい」と口論 殺された44歳“引きこもり息子”の素顔 #元農水次官殺人 #スクープ速報 #週刊文春 https://bunshun.jp/articles/-/12202

 

この報道を見た感想。

 

働きもせず、家にお金を入れるでもなく引き篭もり、殺害予告をするような身内を身内が処分する。

 

私からするとあっぱれ。

 

当然自分が逮捕されることを覚悟して息子を殺す。批判覚悟でやってのける。自分の人生なんてどうでもいい。どうしようもない子供に育ってしまった倅を自分の手で殺める。

 

批判があるなら現在の司法制度を見ろ。死刑制度のような一部の組織が闇に葬り一般市民は手を汚さず明るいとこで生き、死に対して無関心なこの国民を。

 

それを介さず自らの手で処理するこの覚悟。私はあっぱれだと思った。ただ殺めた以上刑期を終え出てきて欲しい。高齢だけど気持ちとしては待ってます。

痴漢を訴えるルール

先日駅のホームを逃げ惑う痴漢がニュースになっていた。

 

自供しているため一定の信頼は置けるため本当にやったのだろう。

 

それでも痴漢の冤罪はあるのだからこういうのはどうだろう。

 

まず痴漢された側はしたと思われる人に注意喚起する。それでもやめなかったら捕まえる。

 

これは周りの目が注意された人に向かれるため引かざるを得ない状況になるはず。

 

これでも続けるなら周りのサポートでとっ捕まえる。

 

一定のフェアさもあっていいのではないだろうか。まぁ一回でも触られた側はいい気がしないからフェアもクソもないが。

川崎殺傷事件にみる感情

やられた側の小学校への記者会見、必要か?どう考えても通り魔が起こした事件、被害者側を報道してどうする。

 

あと、保育園、幼稚園から小学校まではスクールバスがあるとは思う。一般的には歩きや自転車だろう。そこで起こる通り魔、防げるはずがない。議論の余地もない。何をもって「防いだ」と言えるのか。それは学校の敷地内に入ったらか?敷地内に入って犯行に及んだ池田小学校の事件あったよな。無理なんだよ、定義からして。

 

では敷地内に入るまで通り魔から身を守ろうとしよう。それは保護者が学校まで送り迎えすることを意味する。現代でできるか?親の反対が起きるわ。しかも心の中でしか言えない。

 

通り魔に遭遇する確率がどれくらいなのか。無職の人の数、その中で金が底をついてる数、その中で精神疾患を持ってる数、その中で刃物を持って出歩く数、本当に刺してしまう数。数字にしたらオーナイン(0.000000001%)とかなんじゃね。この確率で0にしようなんて無理。諦めたら終わり、それもわかる。

 

目の前で起こる死から目をそらす日本社会も問題だし、通り魔を野放しにしておくこともダメ、警察官を動員するのも限界があるし何より警察官の仕事じゃないし、地域ボランティアも限界があるし、そもそも大人が周りにいて対処できない状況でどうしろと。政権批判は論外。

 

じゃ私ならどうするか。

 

そうだな。まず定義付けとして校内(校門)まで送り届けることを安全と位置付けるなら親と一緒に車で登校。車がないなら自転車や徒歩で同伴。それも無理なら諦めて子供だけで登校。諦めるというのはあくまで親の判断。親が悪いというのではなくこれらをできない会社の問題。

 

会社の問題は子供を学校まで送り届けてから会社に向かうことも許されない会社、フレックス制度もないような会社、時間厳守の就業時間であることが問題でありこっちから解決する必要がある。そもそもIT社会が整っており就業開始の時間が固定されている現代、社会がおかしい。共働きであるなら送りとお迎えを別々でやればいいだけ。

 

昔と比べて外には危険なものがまだまだたくさんある。交通事故の件数は少なくなってはいるが人が操作している限りミスはつきもの。死亡事故はゼロにはならない。限りなくゼロにしようとする試みはやるべきだがゼロを目標にするなら家でネット学校するしかない。それが嫌なら一定のリスクを背負わなければならない。

 

何をもって子供にとって安全なのかのレベルは個々で違う。個々で違うのに学校というひとくくりの中だと全体主義に偏りがち。それは効率化を優先しているから。偏ると一定のルールが形成され法則が生まれる。そこを突かれて事件、事故が起こる。これを防げ?無理だよ。

 

で、自分がこの被害者のようになったらどうするんだ、という究極の質問をする輩がいるがこれは「リーガルハイ」というドラマでいい表現がある。難病の患者に投与した新薬で亡くなった患者の裁判。

 

「その死の一つ一つが医療を進歩させてきた。現代の医療は、その死屍累累の屍の上に成り立っている。誰しも医学の進歩のためには犠牲があっても仕方がないと思っているはずだ、その恩恵を受けたいからね。しかし、その犠牲が自分や家族であると分かった途端にこう言うんだ、「話が違う!」と。なんで自分がこんな目に遭わなければいけないんだ!誰のせいだ!誰が悪いんだ!誰をつるし上げればいいんだ!」

 

新薬としては容体が改善した確率は他の薬に比べて低いものではなかった。むしろどの薬よりも効果のある薬であることが証明された裁判だった。その中でのセリフ。

 

その後にこんなセリフも

「訴えたいなら科学を訴えろ。あなたのご主人を救えなかったのは現代の科学だ」

 

現代にできないことを諦めるわけではないが、この後にあるセリフ

「我々にできることはせめて今ある命を慈しむことです。一日一日が奇跡なのだと知ることです。」

のように突然起こる不幸な出来事に悲しむ前に日々生きていることの幸せを感じることに一生懸命になった方が良いかと思う。

 

誰が悪い、何が悪いのかの犯人探しより今の自分、家族を大事にしよう。

譲位

「譲位」は「退位」と「即位」でひとまとまり。

 

だから退位だけで表現するのは間違い。多くのメディアがそう報じてる。

 

進学を卒業だけでしか表現しないことが近いかな。卒業があって入学がある。個人の場合はこうなる。天皇陛下は必ずお一人、被ることはないことから同じことが言えるのではないか。

 

言葉をどう使うかで何を考えてるかが透けて見える。

地政学的思考

暑さ、寒さから守るために服がある。

 

雨風しのぐため、生活のために家がある。

 

家を守るために敷地境界に門や壁がある。

 

地域を守るために警察や消防がいる。

 

国を守るために自衛隊がいる。

 

 

 

視点を変えて考える。

 

 

なぜ服を着る?なぜ部屋を暖めるのではなく服を着る?それは部屋を暖めるより服を着る方を優先しているから。

 

なぜ家に住む?なぜ彷徨いながら生活しない?それは安定した場所を人は求めるから。

 

なぜ玄関の前に門があり、敷地境界線に壁がある?それは玄関から出て道路に出るために最適な場所だし壁があることで外敵から守ってくれる。

 

それぞれには「そこ」にある意味がある。

 

 

では沖縄に自衛隊基地を含む米軍基地がなぜ多いか。同様に「そこ」にある意味があるから。

 

中国が第一列島線第二列島線を設定しており尖閣諸島を狙っているのは明らか。目の前に外敵がいるのに沖縄以外に配備する意味ありますか?

 

自分の子供の前に変質者が現れた!パパは道の反対側で待ち構えた!

 

ないでしょ。

 

同じこと。子供の前に立ちはだかり子供を守るんでしょ。なぜこんな当たり前のことがわからないのか。いやわからないんじゃなくてメディアが放送しないだけか。

 

とにかく、そこにそれがあるには理由があるってこと。

 

 

 

むかし山本太郎竹島なんて韓国にあげちゃえばいいんだよ、みたいなことを言ってた。これ、別の言い方をすると、山本太郎の全個人財産、見ず知らずの人にあげた?え?やってない?なんで?

あなたの事務所、自由に使える場所として提供してるんだよね?え?やってない?なんで?

 

国家の財産をなんだと思ってる。あげちゃえばってのは国民の生命、財産を放棄していることに他ならない。奪われたものを取り返せない国家を国民がどうして愛せる。

 

 

話が逸れた。

普天間基地は出来てから周りに住宅が建ち始めた。ハッキリ言って当時の都市計画が間違ってる。それを辺野古へ移すのは間違ってない。しかも新基地じゃなくて辺野古の基地の拡大ね。今もあるから基地が。

沖縄から外すことはできない。なぜなら離島に米軍を持っていっても彼らも人、生活があるのだよ。街がなければ生活できない。だから一定の距離になければならない。それが辺野古なのだよ。

 

もしこれを否定するなら独自で軍持つしかないじゃん。金掛かるよ。それより核持ってるアメリカの傘下にいた方が合理的なのはバカでもわかる。あとは核シェア出来たら言うことなし。ドイツもそうしてる。左翼の好きなドイツがだよ。

 

また逸れた。

 

とにかく、あれだ、私は保守です。